2011年11月27日

ニラレバの反対はレバニラなのだ

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世間の常識からすれば全くアベコベな物事の結末に「これでいいのだ」と締めくくり、全てを丸く?収める達人といえば、ご存知バパボンのパパ。息子のバカボンの名前は、ディズニー映画『ライオン・キング』の挿入歌として知られるエルトン・ジョンの名曲「Can You Feel the Love Tonight?」の歌詞にも登場する「vagabond」という単語に由来すると言われている。放浪者や無宿人の意味をもつvagabondだが、息子よりも、むしろその父親のパパのための単語ではないかと感じてしまう。一流の植木職人としての腕を持つバカボンのパパは、番組の始めの歌の歌詞にあるように、お日様が西から昇って東に沈んだとしても、実は「これでいいのだ」とあっさり片付けてしまうほどの楽天家。

今、「ニラレバ」か「レバニラ」かという世紀の議論を巡り、中華街に関係する識者の間で大いに話題となっている。私としては、要は料理は美味しければ「これでいいのだ」となるわけであって、名称はそれらしいものであれば何でも構わないのである。しかし、本物の通ともなれば、やはり名称の歴史や由来についても、それなりの知識をも備えていなければならないのかもしれない。私自身、通でもなんでもないのだが、ちょこっとの好奇心をもってウィキペディアで「レバニラ」を検索してみると、本来は「ニラレバ」と言うところを、バカボンのパパの好物は「レバニラ」だったので、その影響で広まったという説がNHKで紹介されたという記事があるではないか。日出や日没の東西はどちらでも構わないとするスタンスのバカボンのパパならば、きっとふざけてニラレバを反対にしてレバニラとして呼称していたに違いない。

ただ、ここで疑問なのは、NHKでの紹介が正しいとするのであれば、本来の読み方がどうして「レバニラ」ではなく、「ニラレバ」だったのであろうか、という点である。「ニラ」と「レバ」は互いに名詞。2つの名詞が連続した場合、どちらかが主でどちらかの従たる存在になるのが一般的。例えば、「ビール」とその入れ物としての「瓶」という2つの名詞を例としてみてみよう。言うまでもなく、「瓶ビール」は瓶に入ったビールで、「ビール瓶」は火曜サスペンスに登場する被害者の後頭部を強打するための凶器ではなく、ビールを入れるための瓶である。「ビール」と「缶」も同じように、風呂上りに飲むのが「缶ビール」で、足で踏んづけて潰すのが「ビール缶」である。樽に入っていれば「樽ビール」になるし、私の体型ならば「ビア樽」となる。以上の例の共通点は、名詞が二つ並んだ場合、後者が主たる名詞で前者がそれを修飾したり彩を添えたりする従たる存在であることに気付く。

では、この法則が全てに当てはまるかと言えばそうでもない。飲料のビールと違い、ツナ缶やサバ缶となると、「缶ツナ」「缶サバ」とは呼称することは通常ない。恐らくは、発音のしやすさや語呂の良さのほか、刺身用の生や簡易的なパック詰めではなく、長期保存がきく缶詰であることを強調するために、「○○缶」と略称呼称しているだけなのかもしれないと、勝手に想像してしまっているが、真実は定かではない。しかも、「缶サバ」だと「寒サバ」と誤認される可能性もあるし。いずれにせよ、ビール、ツナ、カニといった食材と瓶、缶といった容器や梱包状態との比較を、互いに食材同士である「ニラ」と「レバ」との前後問題と同系列で論じてしまって果たしてよいものなのかという疑問は残る。論じてしまって問題ないものもあれば、どうしても説明のつかない例外的なものもどうしても発生してしまうに違いない。

どうやら、ニラレバとレバニラとの違いを巡っては、同じ中華の仲間のメニューの傾向から判断するのが妥当ではないだろうか。名詞が2つ並んだ代表格といえば、チャーシュー麺、ワンタン麺、肉野菜炒め。チャーシュー麺の場合、基本はラーメンであるが、具としてチャーシューがたくさん入っているので、チャーシューという名詞が後に続くラーメンという名詞を「チャーシューがたくさん入った」と形容詞的に修飾している。肉野菜についても、通常は野菜がメインで肉はそれほどの量が入っていない。では、鶏ごぼうのおにぎりはどうか。鶏とごぼうを比べて、鶏の量が一目瞭然で多ければ問題ないが、両者どっこいどっこいの場合、材料一覧で確認するしかなさそう。あるいは、逆に「ごぼう鶏」とすると、実際にそんな種類の鳥が存在するのかという誤認につながる可能性もあるので、最初から「鶏ごぼう」としているのかもしれない。

ニラレバとレバニラ、私としてはどっちでも構わないような気がしている。ただ、消費者としては、名称の前に来るものに気を取られがちであることは、一般的に言われていること。品詞にこだわらなければ、水餃子と焼餃子も比較の対象になるかもしれない。茹でか焼かという調理法を意味する単語を、その共通する名詞「餃子」の前に置いている。それに、「餃子水」だったら、餃子の茹で汁かと思ってしまうし…。また、人によっては、鶏とごぼう、肉と野菜はそれぞれ、輸入統計品目表におけるHSコードの番号に準じた並び順ではないかとの指摘もあろう。頭6桁が世界共通のHSコードは、品目の種類によって第1類から第97類まで分類されている。参考まで、第1類から第5類は動物性のもので、第6類から第14類までは植物性のもので占められている。肉関係は第2類で、野菜関係は第7類に属している。

いずれにせよ、料理は味で勝負。無論、名前もある程度は大事ではあろうが、ニラレバがレバニラと表記されるのが本当にアニメ番組に登場する人物の影響であったとしても、今のように両者がほぼ同一のものとして認識されてしまい、日本語の中華料理のメニューとして浸透してしまっている以上、どちらが正しくてどちらが誤りかという議論はもはや意味をなさなくなってくる。大切なのは、正誤の見極めではなく、なぜそのような呼称となったのか、そのルーツを探ることである。ニラレバとレバニラ、どちらが最初なのか、考案者は誰なのか、地域的な呼称の違いはないのか、読み方が反対になった本当の理由や影響は何なのか、が大事なのではないだろうか。

私は、言葉は生き物である、というスタンスをとりたい。というのは、ニラレバがレバニラと変化したように、言葉は時代の流れによって変化するものであるからである。昔の辞書と今の辞書と比較して、全ての単語が一様に意味が変わっていないということはあり得ない。今だにいい年をした会社の幹部が「役不足ではありますが、よろしくお願いします」などと非礼な挨拶をすることがある、こういった挨拶が誤って謙遜の意味で長年使われ、それを聞く側にも違和感がないのであれば、それはそれで国語辞典をそろそろ書き換える時期が到来しているという一つのサインでもあろう。もう一つ例を挙げれば、若者が頻繁に使う「ていうか」「ってかさぁ」「てゆーか」「っつーかさぁ」もそうだろう。

A:「今日さぁ、放課後ゲーセン行かねぇ?」
B:「てかさぁ、彼女にプレゼント忘れちゃってマジでヤバいよ」

といった会話に見られるように、「ABCといいますか、むしろXYZなのです」といった本来の意味に加え、A君はB君にゲームセンターで遊ぼうと誘っているのにもかかわらず、B君はA君の誘いに耳も傾けずに、ゲーセンとは全く関係のない自分だけの話題に相手を引きずり込もうとする自己中心的な性質であることがうかがわれることから、1秒前までの会話の分断、相手が発した話題の拒絶、といった意味まで付与されてきてしまっているのではないだろうか。その背景として、相手との人間関係が希薄になってきている昨今の社会のなかで、自分は他人を愛せないが他人には自分を愛して欲しいという欲求が根底にあるのではないだろうか。

未来の辞書で「ていうか」が単語としての市民権を得て載っているかもしれない。恐らく定義としては、「自分の話題に相手を引き込むための有効な言い回し」「相手のつまらない会話に終止符を打ちたいが、それをストレートに言えない場合の切り替えしのための決め台詞」などとされているかもしれない。

てかさぁ、今は辞書の話じゃなくて、レバニラだしぃ、みたいなぁ。。。何だかニラレバ炒めでもレバニラ炒めでもどっちでもいいから、無性に食べたくなってきた。。。

これでいいのだ!


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2010年11月25日

秋田紀行-4(国際教養大学の図書館)

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秋田市内にある国際教養大学(AIU)の図書館は、学生たちに勉強の場をいつでも提供するため、24時間365日オープンしている。蔵書の多くは英語による原書だという。

公立大学法人でありながら、ユニークなカリキュラムが組まれており、特に海外とのコミュニケーションを図る学生の育成に重点を置いている。なので、ほとんどの授業は英語で行われている。驚くなかれ、教員の過半数が外国籍だという。

卒業後の就職率も9割を越えるほど。う〜む、私もここで学部生から人生やり直してみるか。。。
posted by 小津 杉三 at 06:57| Comment(3) | TrackBack(0) | 雑感手記-宗教・言語・文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月03日

富士山は霊峰?

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何か衝動に駆られたように富士山方面に出向くことがある。別に病気というわけではないだろうが、週末になると頻繁に思い立ったように山梨や静岡方面に足を運んでいる。富士山の雄大な眺めは一種の癒しでもある。

よく、「霊峰」などと崇め奉られており、いかにも何かの魂や霊やらが宿っているがごときの表現。私は神道ではないので、日本古来の神などと勝手に決め付けられても、「あぁ、そうですか」と間単に了解することはできない。

誕生や幼少期は神社、結婚式はキリスト教の教会、人生最期の幕引きは仏式でというパターンが染みとおっているが、宗教のいいとこどり的な手法が国中でまかり通っていること自体、自己の浅はかさを世界に向けて露呈していることなのではないのだろうか。

今回もいつもと同じく、ただただ日本最高峰の富士山の雄大さに惹かれて訪れているに過ぎない。
posted by 小津 杉三 at 00:53| Comment(4) | TrackBack(0) | 雑感手記-宗教・言語・文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月22日

市営バスの車内もクリスマス仕様

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イエス・キリストの降誕を祝うクリスマスのはずが、なぜか日本では商業ベースの波に乗って売り上げ貢献のための役者に仕立て上げられている。でも、なぜ市営の乗り物にクリスマスのデコレーション?仏教徒や神道家の乗客らは抵抗を感じない?

生まれたときや成長期は神社で祝福し、結婚式は教会で挙げ、そして人生の最後の幕のときは寺で面倒をみてもらう多くの日本人にとって、市営バスの車内であろうと自宅であろうと、クリスマスのデコレーションはデコレーションという認識なのであろうか。

先日、私の会社にとある公務員がやってきて、ある書類の提出を求めてきた。その書類に日付を西暦で書き入れようとしたところ、「私ども役所では西暦はあまり使わないんですよねェ〜」などと宣う。「お役人はそうでも、私は平成は使わないんですよねェ〜」と返答したところ、公務員からは苦笑いが戻ってくるだけ。

役所にはクリスマスで着飾ったバスを運行するといった一面もあれば、一方でしたたかに元号に固執する一面も。「2010年APEC首脳会議が来る平成22年11月に横浜で…」って何?「2010年」は固有名詞の一部で平成22年こそが年数を数えるためのもの?これを矛盾と判断するか、どんな宗教でも受け入れることができる日本人の度量の深さと美化するか。
posted by 小津 杉三 at 00:25| Comment(3) | TrackBack(0) | 雑感手記-宗教・言語・文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月22日

ニホン人ブログ読者のモラルを巡る日米論争

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横浜との姉妹都市提携を結んでいる米国のサンディエゴから客人が来浜したので、姉妹都市に関連する事業やビジネスをたまに担当させられている私が夜の野毛に連れて行くことに。別に野毛でなくてもどこでも良いのだが、ことのほか野毛に興味を持っている様子なので、ならばということで所望する野毛に連れて行くことに。

彼らの今回の来浜目的は、横浜とサンディエゴとのホームステイプログラムの下見ツアー。サンディエゴの中流家庭の子供たちが滞在するであろう横浜の各家庭を巡り、各家庭の間取りや駅までのアクセスなどを調査するもの。実際にホームステイを希望している子女の父親たちも、会社を休んで来日している。ということで、今回は珍しく単独一献ではなく、コーディネーターや父親たちを連れての野毛探訪。

父親たちは40〜50歳代が中心。普段の仕事は、不動産ビジネス、ネットによるマーケティング調査、パン屋、退役軍人など背景はさまざま。野毛を名指しで選んだ理由を訊ねると、日本のブログを読んだからだと宣う。どんなブログなのか訊くと、「○■の%$◇」、「×△日記」、「+*@は?!$&」と、聞いたことがあるタイトルが・・・。何とそのうちの1つに「屋根裏部屋からの手紙」の名が。日本語でのブログをどうやって理解しているのかというと、日本人の秘書に訳させているとのこと。

このブログは欧州の一部の地域とカナダで読まれていることは知っているが、アメリカではまだワシントンとアイダホの2州だけだったはず。いつの間に姉妹都市のサンディエゴのあるカリフォルニアまで飛び火したのか。そんなことはどうでもよいが、酒宴の席で実は私が「小津 杉三」だと名乗るわけにもいかず、「へぇ、そんなブログがあるんだ」とすっ呆けることに終始する始末。

やはり、アメリカだけあって彼らはネット世界にかなり精通している。商売上必要としている日本の消費動向についても、情報は基本的にほとんどネットで収集している。彼らの収集する情報の多くは、日本のブログからであるケースも多々あるようなのだが、そのブログに静電気のようにまとわり付く偽名投稿を日々の糧としている読者層のモラルなどを巡り、サンディエゴ側から矢継ぎ早の質問。ニッポンの居酒屋で日米論争を展開する羽目に・・・。

以下はその論争の一部を抜粋し、日本語に置き換えたもの。なお、ところどころ意味不明な発言があったり、支離滅裂な展開になっていたりする部分があるが、それは全て、私の日本語としての国語力のなさと酔いのせいということでご理解いただければ幸い。


父親1:
 この店は実に素晴らしい。料理は旨いし、酒が食道をスムースに通って胃までストンと落ちていく。我々が行きたいと思っていたニッポンの居酒屋の想像していた姿に限りなく近い。ここにはよく来るのか?一体どうやって見つけたんだ?

私:
 最初はどこかのブログで見つけ、それ以来たまに通っているのだが・・・。気に入ってもらえて何より。

父親2:
 きっかけとなったブログとはどのようなモノなのか?タイトルは?

私:
 もうかなり前のことで忘れてしまった。

父親1:
 私の仕事はネット調査が主なのだが、業務上よくニッポンのブログを読むことがある。ニホン人のチミを前にしてちょっと言いにくいのだが、どうしてニッポンのブログの読者にはモラルの低い者が多いのか?
 一部の読者の乱行には目に余るものがある。特に掲示板と呼ばれている書き込み帳はニューヨーク地下鉄の悪戯書きに過ぎず、罵詈雑言ばかりが横行し、善良なブロガーの活躍を邪魔しているだけのように見受けられるが、その辺はどうか?

私:
 ニューヨーク地下鉄にはまだ落書きがあるのか?全てのブログを読んだわけではないので一概には言えないが、ブログへの悪戯書きレベルのコメントや掲示板での罵詈雑言は、日本に限らずアメリカとて同じように社会現象となっているのでは?その辺は洋の東西を問わないような気がしている。
 質問への回答だが、ネット社会では自分の本名や顔を知られることがないので、普段は物怖じしている者でも、無記名での悪戯コメントの投稿により普段の生活で溜まった鬱憤晴らしも兼ねることができるのではないか。善良なブロガーを意味もなく攻撃することで、仮想空間における自分の確固たる地位を築いて自己満足しているケースは多々あるかも知れぬ。

父親2:
 ニッポンのネット社会は、相手に対して直接モノを申すことが出来ない気弱なニホン人社会の姿をモロに象徴しているかのよう。言いたいことがあれば、自分のサイトで堂々と発言すればよい。ネット上での自分の所在を明らかにすることなしに、代わりに他人が作った掲示板やブログのコメント欄を自らが所有する領域と勘違いした挙句、狙った相手に雑言を吐き出してしまうニホン人ネットサーファーが実に多いとの調査結果を耳にしている。

父親3:
 そんな調査があったのか?
 ともあれ、かような傍若無人な読者は恐らくはティーンエイジャーなのであろう。取るに足りぬ。

父親2:
 実は以前、よく購読していたブログがあってね。それが急に消えてしまったんだよ。乱暴なコメントが多くてどこかに移転したのか、それとも止めてしまったかは不明なのだが。週末の自然との触れ合い、会社帰りの単独一献、今の経済社会に対する私見などが織り交ぜてあった日記だった。ニホン人のくせにずいぶんとアメリカに対する辛口な意見もあって、むしろそれが一種のスパイス的な刺激があってよく読んでいたんだよ。

父親1:
 トップページの左上におかしな写真があって、管理人がその画像の姿に似ているとのことのようだったらしい。

私:
 かようなブログのことは知らぬが、常軌を逸したブログ読者の多くは大人。しかも、20〜40歳代が中心であることはほぼ間違いない。

父親3:
 れっきとした大人の年齢ではないか。ニホン人の大人は随分と幼稚な・・・。

私:
 単に「幼稚」や「未熟」という表現で片付けるのは簡単だが、悪意のある読者にまで成り下がった背景には、我々の想像を超える複雑な道のりがあったのかも知れぬ。
 悪意ある読者の多くは、これまで自分のブログで得られた単なる仮想空間上の誉れを本物の名誉であると歪んで解釈する。だからこそ、他のブログの出現により読者を奪われはしないかと不安になるのであろう。そして、急に自分が仮想空間上から追放されたごときの錯覚に陥った結果、その腹癒せとして身勝手な仕返しの一環として嫌がらせのコメントを残したり、他の場所の掲示板で悪口・陰口を書くのではないか。
 あるいは、自らはブログはやらないが、盛り上がっているブログを見つけると、ついつい自分の現実の生活と見比べてしまい、その結果、見劣りした自分に対する嫌気を掻き消すがごとき、無作為に人気ブログを落としいれようとするパターンもあるのではないだろうか。
 結局のところ、かような読者の心理には、羨みや「誰も見ていないんだから」といった甘えというか逃げの精神があるのかも知れぬ。

父親3:
 自分の思い通りにならないことを理由に、善良なブログ管理者を攻撃することはあってはならない。かような読者が横行するネット社会を擁するニッポンの社会へ子供たちを送り込むことに対し、今さらではあるが一抹の不安を覚える。が、これがニッポンの現実なのかもしれない。受け入れるしかないのだろうか。

父親1:
 ネット上であれば自分が誰だかを隠すことができる。だから、何をやってもバレないし大丈夫だ。誰も自分であることを知らないんだから、架空の人物に成りすまして赤の他人に雑言を浴びせたった構わない。かような考えがニホン人の思想の根底に根強く残っているから、ニッポンのネット社会が堕落していくのではないのか?

父親3:
 誰も見ていないんだから何をしたっていいじゃないか、という考えは仏教の基本的な精神なのか?ニホン人の文化的な礎でもある神道ではかようなことを教えているのか?

私:
 神道でも仏教でも、かようなことは教えてはいないはず。なお、神道には文化的な面も否めないが、宗教であることには変わりはない。残念ながら、今や日本人の大多数は無宗教と考えて差し支えなかろう。生まれた時や成長期の節目は神社で祝い、結婚のときはクリスチャンでもないのにかかわらずキリスト教式で行い、そして最期は仏式にて生涯の幕を閉じる、というのが多くの日本人の生き様のパターンとなっている。

父親2:
 1人の人間の生涯においてある特定の同一時期に複数の宗教が存在するということと、その人間のネット上での幼稚な行動との間にどのような因果関係があるのか?

私:
 いろんな宗教が混ざっているのが日本文化の良いところ、などと豪語してはばからない日本人も多いが、それは単に各宗教の部分的な「いいとこ取り」をしているだけに過ぎず、宗教侮辱にも通ずる大きな誤りであると私は言いたい。複数の宗教を火遊び的につまみ食いしたところで、それぞれの本当の教義や理念を知っているとは到底言い難い。普段の生活の中で自分を中心から支えてくれる信仰という拠り所を持たない日本人の多くが、ネット社会でつい自制心をなくした言動に走ってしまう可能性を秘めていることに疑う余地はないのではないか。そして、それにより多くの善良なる管理人や他の読者が傷ついてしまうのではないか、と私は危惧している。

父親2:
 なるへそ、それは興味深い見解だ。

父親1:
 そういえば、最近じゃ仕事も忙しくなって、ほとんど教会なんかに行くことがなくなってしまった。最後に行ったのは確か去年のクリスマスじゃなかったか。

私:
 貴殿の家庭が教会に行く頻度と日本のネット社会の未熟さの間に何の関係もないはずだが?

父親1:
 おっと、いっけねぇ。

私:
 会話の途中で脱線させるきっかけを作った者は、問答無用でグラスの酒を飲み干さなければならない。日本のシキタリではそう定められているのだが・・・(笑)。

父親1:
 ボクはニホン人じゃないし・・・。

私:
 が、貴殿らは今、日本にいるではないか。郷に入っては・・・何とやら、という諺もあるし。

父親1:
 止むを得まい。では、いざッ。

私:
 天晴れな飲みっぷりではないか。

父親2:
 ボクもニホン式の一気飲みとやらを試してみよう。では、グビッ。

父親3:
 ヒュ〜、凄い。じゃ、ボクも一気で。ゴクッ。

父親1〜3:
 パチパチパチ(拍手)。

父親1:
 して、ニホン人のチミがまだ一気していないようだが?これは一体どういうことなのか正当な説明をしてもらわないと・・・。

父親2,3:
 そうだ、そうだ。

私:
 そ、そ、そんなぁ・・・。
 会話の脱線はボクではないのだが・・・。うぅ、仕方ない、では・・・。

父親1:
 ちょっと待った。チミのグラスには1/3しか酒が入ってないではないか。満タンに注がせてもらうよ。

私:
 ウギョ、なんて残酷なアメリカ人パパ・・・。

父親1:
 はい、どうぞ。

私:
 ゴクッ。

父親2:
 では、私からも1杯注がせていただこう。

私:
 え、一気2回も?もう逃げられない。では、グビッ。

父親3:
 では、最後にボクからも・・・。

私:
 もう上の口から逆流しそう・・・。えぇ〜ぃ、ゴクッ。

父親1〜3:
 ヒュ〜、ヒュ〜ッ!。

私:
 では、会話をネットの話に戻して・・・。

父親1:
 墓穴を掘ったね、チミ。ボクたち4人は今、ネットの話から次第に一気飲みの方向に流れてきているんだよ。今、ネットの話に戻るということは、即ち話の腰を折ることにもなるんだよ。つまり、今度はチミが会話を脱線させたことになる、結果としてチミが一気をしなければならない立場に置かれているということを意味するんだよ。

父親2,3:
 そうだ、そうだ。

私:
 もぉ、アメリカに帰れぇ〜。ゴクッ!。

父親1〜3:
 見事ッ!。

父親1:
 今日は料理の旨い居酒屋で美酒に酔い、そろそろニッポンの文化でもあるカラオケにでも興じてみたいと思うが・・・。

全員:
 賛成っ!。

父親2:
 その前にもう1つ聞かせてくれないか。もし、ニホン人のチミがブログの管理人であるとして、読者から誹謗中傷の言葉を浴びせられたり、見ず知らずの人間に掲示板で陰口をたたかれたら、どのようなに対処するかね?

私:
 さぁ、ブログなんてやったことがないので、なかなか想像できぬ。恐らくは、善意ある読者であろうと悪意ある読者であろうと、同じような語調で返信のコメントをすることであろう。そう、分け隔てなく接する、というのが私のモットーである故。
 ブログとは基本的に不特定多数がアクセスできる仮想空間上にあるため、悪意ある読者からの攻撃もある程度は覚悟しておく必要がある。対処に疲れたら、別のサイトに移ればよいだけの話。さらに攻撃されたらパスワードをかけて悪意ある読者を排除すればよいだけのこと。

父親3:
 なるへそ。先ほど、父親2も話していたが、実はそう実践しているニホン語のブログが以前あってね。父親1の秘書が愛読者だったようなのだが、悪意ある読者のせいなのかどうかは知らないが、ある日、忽然と姿を消してしまったようなのだよ。が、その後、「屋根裏部屋からの手紙」というタイトルのブログを見つけたようなんだが、どうもその日記での書きぶりが消えたブログと酷似しているというのだよ。

父親2:
 チミの発言を聞いているうちに、チミこそがいずれか、または両方のブログの管理人かと一瞬思ったよ。

私:
 はっはっはっはぁ、ま、まさかぁ・・・。

父親1:
 チミであるはずがないよ。そのブログの管理人は単独一献を信条としていて、近いうち孤独死を迎えるのではないか、なんて横浜出身の我が秘書が冗談っぽく心配していたよ。何でも、会社帰りの居酒屋巡りと週末の自然との触れ合いだが生きがいみたいな人生を送っているみたいだからな。
 その点、チミはニホン人が良く使う「薄給サラリーマン」の代名詞のような存在だから居酒屋には頻繁には通えないだろうし。しかも、消えたブログの管理人は古都・鎌倉の長谷に鎮座する大仏のような体型だというが、チミは痩せてはいないが太くはないし背丈も低い。そうだよ、チミであるはずがないさ・・・。

私:
 まぁ、貴殿らアメリカ人に比べれば、そ、そうだな。あっはっはっはぁ。

父親1〜3:
 ほっほっほっほぉ。

父親2:
 チミが言うとおり、毅然として態度を堅持しているのが得策かもしれない。それはニホン人らしいやり方なのかもしれないが、けっこう疲れるだろうな。非効率的なのでは?

私:
 疲れると感じるのであれば、ブログなど止めれば良いだけのこと。そして、効率性とブログ維持とは別の次元の話。ブログを維持したいのであれば、悪意ある読者をどうやったら排除できるか工夫すればよい。排除すると余計に攻撃しようとする読者がいることは十分に予想できるが、それはそれで彼らの人間性として受け入れてあげることも必要であろう。
 知人が切り盛りする店がある掲示板で陰口をたたかれていたが、その彼は常に毅然とした態度を貫いている。店の悪口を書く人間は、基本的にその店が好きで、その店に期待をしているのである。ただその期待が余りに過剰な余り、ある日のサービスがたまたま納得できなかったという理由で、ついつい子供のように陰口を書いてしまっているのであろう。日本ではその昔、小学生の男の子は好きな女の子の気を引くため、挙ってスカートめくりというのをしたものだが、悪意ある読者の心理にもこうした未成熟な少年のような純粋さが残っているのかも知れぬ。
 かような読者に追い回されるのも「いとをかし」と余裕をもって接することができる態度こそ、多くのブロガーに持ってもらいたいと私は考える。

父親1:
 まるで、チミもブログをやっているような口ぶりだが・・・。

私:
 ぃぇぃぇ、単なる想像で述べたことだけのこと。あまり気に留めないでいただきたい(汗)。

父親3:
 悪意ある読者の多く、いや全ては、架空のIDネームで書き込みをするようだが、これは本当か?

私:
 いかにも。先ほども言ったように、悪意ある読者というのは、基本的に周囲からの注目に飢え、他人の幸せは自分の不幸と考え、そして矛盾しているようだが、なぜか少年のような純粋さも持ち合わせている。
 つまり、彼らには庇護してくれる何かが必要であるといえよう。それが、ネット上の架空のIDネームなのである。架空名義なので自分が誰だか周囲に知られなくて済み、誰からも咎められることもないし、お袋に怒られることもない。
 彼らの存在はある意味、ニワトリの卵に喩えられるかも知れぬ。勇気をもってその殻を破り、自分のサイトを立ち上げて堂々と意見を述べることができてこそ、その読者は仮想と現実とのギャップから目覚めることになるのかも知れぬ。
 殻の中で他人に成りすましながら暴言を吐いていても、実は相手にはそれほどダメージを与えないものなのである。自分の居所を殻の外で確立させ、正々堂々と文句なり意見なりを言えるようになってこそ、悪意ある読者からクリケットな読者へ成長したといえるのではないか。

父親1:
 え?「クリケットな読者」だと?何だねそれは?それを言うなら「クリティカルな読者」じゃないのかね?

私:
 そ、そう、スポーツじゃなくて、その「クリティカル」。アルコールの影響で舌が麻痺してきたとみえる・・・。

父親2:
 アルコールの影響というのは詭弁だろうに。チミの英語は全くダメだ。認めたまえ。

私:
 あっはっはっは。

父親2:
 出た、ニホン人が得意の笑ってごまかすってやつ。

私:
 ば、バレたかぁ・・・。

父親3:
 チミがいう殻を破る行為はかなり勇気が必要であろう。それを温かく見守る雰囲気がネット社会にあればと願う次第。特に、このニッポンで。
 知っているかね?アメリカではブログ記事にコメントする際、本名による書き込みが基本。ニッポンでよくある「通りすがり」とか「名無しさん」といったふざけたネーミングは基本的に存在しないし、あったとしてもそのコメントは誰からも読んでもらえず相手にされない。そういう風土が確立しているんだよ。ニッポンでそうなるのは、まだまだ先になると思うがね。いや、ずっと来ないかもしれない。

私:
 その頃には、貴殿らの子女たちも大人になり、日本人とビジネスでもしているかも知れぬ。

父親1〜3:
 おぉ〜、はっはっはっはぁ。

私:
 貴殿式の「相手にしない」、というのが最も楽で合理的な手法なのかも知れぬ。
 それから、コメントや掲示板の発言でよく見かけるのが、そのブログの人物に会ったこともないのに、あるいは会ったことがあったとしても人物の表面しか知らないうちから「〜がムカつく」「〜はウザい」「〜はキモい」といったような断定的な決め付け型に終始するパターン。
 その他、そのブログの中身やそれを書く管理人の人物像をあたかも自分は良く知っているかのように「〜は・・・なんだよな」「実は〜は・・・なんだぜ」「〜で飲むような奴らは・・・なんだぜ」といったような仕切り文句を連発することでネット上の注目を集めようと努力する話題提供型もよく登場している。
 そのほかにも細かく分類すればもっとあるのだろうが、実のところ掲示板などにはほとんど興味がないので基本的にはあまり意識を向けていない。

父親1:
 チミはだいぶ酔いが回ってきたようだね。発言の意味が不明だよ。
 つまるところ、形のない仮想空間での法整備がきちんとなってないようとどうしようもない。仮想上であれば誰をどう傷つけようと、自分は知ったこっちゃないと感じているニホン人も多かろうに。

父親3:
 それは、アメリカだって、欧州だって、アジア諸国だって、悩みは同じではないのか。
 それにしても、ブログが嫌いなら読みに来なければよいと思うのだが。その際にアクセスしなければ良いことであって、それと関係のない掲示板で陰口をたたくニホン人の心の中は一体どうなっているのか。嫌いでムカつくんであれば、なぜそのサイトのURLをわざわざクリックしてサイトを訪ねるのだろうか。その根本的な部分がどうも意味不明と考える。

父親2:
 それは、注目が人一倍欲しいからではないのか。誰だって注目されたい、名声を浴びたいと願っているが、その感情の表し方を悪意ある読者らは心得ていないとお見受けする。ストレートな言い方ではあるが、一見すると社会に適応した大人の皮を被ったアダルトチルドレンの集団が挙って掲示板に群がる姿こそ、ニッポンのネット社会を如実に表しているのではないだろうか。

父親3:
 なるへそ。

私:
 今一度、発言をしてみたい。
 単に「相手にしない」だけだと、「注目」を必要としている彼らとしては、何とかして返信を書かせようと懸命なる努力をするしか道はなくなる。英語でなんていうのか知らないが、要するにブログのコメント欄を「炎上」させようと懸命なまでに努力する。
 私が管理人の立場だったら、基本的には返信するのではないかと予想しているが、コメントの内容が余りに一方的な決め付けや非論理的だと、対処に大いに窮するのではないだろうか。ロジカルな思考を持たない一方的なコメントは、コミュニケーションの鎖を破壊するだけの単なる凶器でしかない。

父親1:
 非ロジカルなコメント主の多くは、単に一方的であるならまだしも、自分のコメント内容こそが唯一正しいのではないかと考えているのではないかと思わせるような態度だから始末が悪い。これは特にニホン人によく見られる傾向だ。

父親2:
 だからこそ、ニッポンのネット社会でで悪戯コメントや書き込みが横行するのではないか。

父親3:
 いずれにせよ、訴訟沙汰になりにくいニッポンでも、今後は断固たる措置も念頭に置く必要もあるのかも知れぬ。自分自身を守るためだけではなく、善意ある他の読者のためにも。

私:
 殺人などの犯罪予告とかでない限り、ブログへの悪戯コメントや掲示板での扱き下ろしぐらいでは、改善はかなり難しいかも知れぬ。
 今できるのは、毅然とした態度を貫くこと、面倒になったら移転すること、執拗ななでに追っかけがあったらパスワードをかけること、ぐらいだろうか。

父親2:
 最低限、それくらはしておく必要があろう。
 が、もっと良策があるんだが、知りたいかね?ニホン語以外の言語でブログをやるんだよ。そうすれば、ニホン人からの低俗コメントは防げる。例えば、英語で日記を書いてみればいいんだよ。もっとも、チミの英語力では到底ダメなのは明らかだが・・・。

私:
 日記をつけるなら、手書きの日本語で紙にしたため、机の奥にしまっておく!しかも、長続きしないから3日で飽きるだろう。

父親3:
 それは名案。もともとチミはブログには向かないタイプだよ。ノートで手書き、のほうがいいかも知れぬ。

私:
 では、そろそろ貴殿らの演歌でも聴きに行くとするか。

父親1〜3:
 ニッポンのエンカなんか歌えるわけがない。エンヤは知っているが・・・。

私:
 それはアイルランドの歌手だが・・・。

一同:
 〜爆笑〜

私:
 して、会計だが・・・。

父親3:
 今日はドルしか持ち合わせていないのだが・・・。

父親1,2:
 父親3は店に残して置いて行こう。

父親3:
 ぉぃぉぃ、冗談だよ、冗談。円で払うよ。

一同:
 〜大爆笑〜


お・し・ま・い
posted by 小津 杉三 at 00:30| Comment(8) | TrackBack(0) | 雑感手記-宗教・言語・文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月19日

文学の小径

090516-bungakunokomichi.JPG

「文学の小径」は、万葉集にも歌われている湯河原・万葉公園内にある。渓流沿いの遊歩道に、湯河原にゆかりのある文人や歌人が詠んだ短歌などが立て札に記して掲示されている。

せめて一句詠もうと、足湯の帰りに歩いてみたが、火照った身体では何も思い浮かばない。
posted by 小津 杉三 at 10:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 雑感手記-宗教・言語・文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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